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昭和56年(1981年)、アメリカ・ジャマイカの両政府から農水省へ日本の栽培技術援助の要請がありました。農水省がこの要請を、その前年に発足した全日本コーヒー協会の初代会長であり、UCCの創始者で当時会長を務めていた故・上島忠雄に伝えたところ、「コーヒーを飲む人間にとってメッカとも言えるジャマイカに農園を持ちたい」、そんな強い希望を持っていた上島忠雄は快諾しました。しかし、規模・投資額の大きさから協会が躊躇すると、上島忠雄はこのプロジェクトをUCCという一企業の事業として推進することを決めたのです。
気品溢れる味わいと香りで知られるブルーマウンテンコーヒーは生産量もごく僅かで、その殆どが日本に輸出されてはいたものの、当時は日本全体のコーヒー消費量のうちわずか1%にも満たなかったのです。この絶対量の少ない最高品質のコーヒーを日本に安定供給するために、UCCはブルーマウンテンの農園経営に乗り出しました。もちろん、日本のコーヒー業界では初めてのことでした。 |
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まず、ジャマイカで最も由緒ある「クレイトンハウス」を所有すると、そこを事務所として農園経営がスタートしました。しかし、ブルーマウンテンコーヒーが育つのは、秋田県ほどの面積のジャマイカの中でもブルーマウンテンエリアと呼ばれるごく限られた山岳地帯。立っていられないほどの急斜面もあるエリアにコーヒーを植え、育てるのは容易なことではありませんでした。
現地に派遣された3名の社員も、頻繁に起こる自然発火の山火事に無念の涙を飲んだり、夜間警護の山歩きで数え切れないほど足を滑らせたり、時には旱魃、大型のハリケーン、うだるような猛暑に悩まされたり・・と、ジャマイカの自然にかかっては、せっかく立てた事業計画も所詮机上のプランであることを思い知らされるばかり。農園にかける夢やロマンを打ち砕くかのような現実に直面したのです。しかし人間にとって厳しい環境も、最高級コーヒーの名を欲しいままにしているブルーマウンテンコーヒーにとっては、理想の栽培地であることは間違いありません。この土地から最高のコーヒーを産出するために、現地には常に日本人スタッフを駐在させ、作業手順や肥料の扱い方など地道な研究を積み重ねて、現地労働者への栽培技術の指導にあたりました。
手作業で行われ、その全てを現地の労働者に頼るしかない農園経営ゆえに、風俗も習慣も違う現地の人々を雇うなかで、コミュニケーションの難しさにも悩まされました。とつぜんのストライキが起こり、人手が確保できなかったことも。しかし、ブルーマウンテンコーヒーを育てたいと言った情熱はやがて国境を越え、ようやく社員と労働者が一体となった作業が始まると、本格的な農園運営が始まったのです。
一方、上島忠雄の呼びかけによって、苛酷な条件下で働く駐在社員を支援すべく、昭和57年(1982年)には「ブルーマウンテン基金」が設けられ、多くの社員から支援物資が集められました。この同邦からあたたかい心は駐在社員の大きな励みとなり、現地でのつらい作業を活気づかせていきました。 |
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・・・昭和58年(1983年)2月、クレイトン農園初の出荷となるブルーマウンテンコーヒーが船積みされ、長い旅を終えて日本に入荷されました。それは、長年にわたる上島忠雄の夢、UCC社員の夢が現実となった瞬間でした。はるか海を渡って届いた、そのかぐわしい香りに誰もが酔いしれたのです。現在では、ブルーマウンテンコーヒーの日本での輸入量の約半分をUCCが占め、日本への供給に努めています。
さらに平成元年(1989年)には、ハワイ島コナ地区に「UCCハワイコナコーヒー・エステート」を開設して、ハワイコナコーヒーの生産に乗り出しました。開設するにあたっても、ハワイの溶岩地をブルドーザーで耕すことから始めたりと、なみなみならぬ苦労がありました。しかし、この直営農園の開設によってコーヒー生豆の一貫生産体制を実現したUCCは、各生産地の高品質なコーヒーを日本市場へ安定供給し消費の拡大をはかっていきました。
甘味が感じられるブルーマウンテンコーヒー、爽快な酸味のハワイコナコーヒー。コーヒーの味覚の大事な要素をそれぞれ特徴に持つ生産地に直営農園を持つことは、上島忠雄の夢でもありました。そしてその夢は、多くの人々に支えられてついに叶ったのです。 |
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| この2つの直営農園では、カップを満たす一杯の幸せを遠く日本へ届けるために、今日も、コーヒー作りに懸命な人々が汗を流しています。戦前、初めてコーヒーの美味しさに触れ、感動し、やがて「農園をやりたい」そう願った上島忠雄の夢とロマンは、今もコーヒーへの情熱となってUCC社員に引き継がれています。 |
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