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日本人移民とブラジルのコーヒー

[カテゴリ]
歴史
[著者]
香月 麻里
[掲載年月]
「月刊 珈琲人」 2001年06月号
写真のご提供:
◆(財)日伯協会提供 事務局長 黒田公男様
日本からみると地球のほぼ反対側にある国ブラジル。 現在そこに暮らす日系人は、何と150万人とも言われています。 日本以外に、これだけ多くの日本人の血を受け継ぐ人々が住む国は他にありません。
ブラジル・サンパウロ州では、6月18日を「日系人移民の日」としていますが、 なぜこれほどの日系人の方々がコーヒー大国ブラジルに暮しているのでしょうか。 今月はブラジルコーヒーと深いつながりを持った日本人にスポットをあててみました。
■ ブラジルコーヒーの魅力
今日、世界一のコーヒー生産国はブラジルで、昨年度の生産量は184万8,000トンです。ブラジルでは収穫したコーヒーの実を広い場所に敷きつめて天日乾燥させた後に、コーヒーの種子(コーヒー豆)を取り出します。例えば、乾し葡萄といったドライフルーツは、天日乾燥によって甘味を増加させ、味の深みと幅を広げますが、天日乾燥のコーヒーの場合もそれに似ていると言えるでしょう。コーヒーの果肉に含まれた糖分が増すことで生まれた美味しさが、カップで飲む際には、ブラジルコーヒーならではの深みとコクを演出します。

現在、日本に輸入されているブラジルコーヒーは、やわらかな口当たりの良質な豆が中心で、主にブレンドのベースに使われています。中でも最高級の格付けをされたブラジルコーヒーは「サントスNo.2」と呼ばれ、日本では積出港の名前にちなんで“サントス”という愛称で親しまれています。
■ 契約農民の誕生
日本人とブラジルコーヒーが出会う歴史的な背景をたどってみましょう。ブラジルでは1888年にようやく奴隷制度が廃止。それまで農園で働いていた人々は街へと移り住み、農園は極度の労働力不足となり国の経済に深刻な打撃を与えました。

時同じ頃サンパウロ州においてはコーヒー栽培が盛んとなり始め、サンパウロ州のコーヒー農園は人手を必要とし、“コーヒー栽培に従事できる働き手となる定住移民=農民”の移住をヨーロッパ諸国に呼びかけました。当初コーヒー栽培はヨーロッパからの移民によって行われていましたが、労働の苛酷さに加え、第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパ各国がブラジルへの移民を停止したことで、それに代わる労働力がますます日本に求められるようになったのです。こうして人々はコーヒー栽培の担い手となるためにブラジルへと旅立って行きました。
■ ブラジルの地を求めて
1920年代のサントス港(上)と1998年のサントス港(下) 外務省通商局の資料と偶然にも同じ角度で、 旧サントスコーヒー取引所の時計台から著者が撮影したもの。
当時、移民を募る広告には“舞って楽しくそして留まる”=舞楽而留(ブラジル)という当て字を用いた国名が掲載されていたそうです。日本での暮らしに別れを告げ新天地ブラジルに希望の光を求めて、1908年(明治41年)4月28日午後5時55分、781名を乗せた笠戸丸(かさとまる)が神戸港を出港。52日間の長い船旅を経てたどり着いたのが、今日もなおブラジル最大のコーヒー積出港である“サントス”でした。

東洋から来た小柄な移民たちを見たブラジルの新聞記者は、他国の移民とは全く異なる日本人の清潔さや礼儀正しさ、そして大勢の日本人が立ち去った後にチリひとつ落とさぬ彼らの姿には、大いに驚いたといいます。いつの時代も決して忘れたくない日本人らしい公衆での礼節心を感じさせられます。
■ ブラジルコーヒーの礎
“コーヒーは金の成る木”と信じてブラジルへ来た移民たちは、この地へ来て生まれて初めて飲んだコーヒーの苦さに驚き、口に含んだコーヒーを吐き出して、こんな苦いものを育てる為に遥々海を渡って来たのかと不安にかられたそうです。そして奴隷解放から長い年月が経ってはいたものの、農園を取り巻く環境はさほど変わってはおらず、銃を持ち、馬にまたがった監視人の下で行う農作業は、コーヒー栽培の過酷な肉体労働以上に精神的苦痛の芽を日本人移民たちの心に植え付けたと言います。

コーヒー栽培の傍ら、借地で稲作を試みようとした移民たちは、川べりの湿地近辺に住居を構えました。また、遠い異国の地においても風呂を極楽浄土と重ねあわせた精神志向は変わることなく、好んで川辺に住んだためにマラリアで命を落とし、まるごと全滅した村落もあったそうです。これは稲作文化に培われ、身と心を清めることを尊ぶ日本民族の魂が生み出した悲劇でした。

収穫したコーヒーの実はコーヒー豆を取り出すために 広場に敷き詰めて天日乾燥される。 ブラジルでは主にこの「乾燥式」を行っている。
実にブラジルへ渡ってきた日本人のうち、およそ8割の人々がコーヒー栽培に従事したと言われています。そうしてサンパウロ州のほとんどのコーヒーの木は、幾多の困難を乗り越えた日本人移民の手によって育まれ、特に、今日ブラジルコーヒーの名産地のひとつとして知られるサンパウロ州モジアナ地域においての活躍ぶりは、ブラジルコーヒーの深い味わいを生み出す礎となりました。
■ 日本人移民がもたらしたもの
サンパウロ州リベロン・プレットにある“コーヒー通り”と 名づけられた道の看板。 かつて日本総領事館の分館が置かれたほど、 この地は初期の日本人移民が多かったところでした。
その後、日本からの移民の数は増え続け、1923年関東大震災の救助策として、政府は特別補助金を出して110名を移民としてブラジルへ送り出しました。更に1927年、日本では金融恐慌、1929年の世界恐慌、1931年の東北・北海道の冷害など、経済不況や天災はさらに移民を送りだす引き金にもなりました。やがて自作のコーヒー農園を営む人、また、土地を離れサンパウロ近郊に移り住んでゆく人々も増え、ブラジルにおける日系人の活躍は農業だけに留まらず教育や医療、政治へと活躍の場を広げてゆきました。

最後の移民船が、神戸の港からブラジルに向けて出港したのは1971年(昭和46年)。のべ25万人もの人々がブラジルへと移住したとされています。日本人がブラジルに伝え広めた農業技術は多方面に及び、例えば、ブラジルでは長いこと輸入に頼っていたコーヒー生豆を詰める「麻袋」の材料である麻の栽培、胡椒の栽培をはじめ、新鮮な生野菜を食べる食習慣なども日本人の農業技術がもたらしたものだったのです。

こうしたブラジルへの貢献を評価し、ブラジル・サンパウロ州は6月18日を「日系人移民の日」と定めたのでした。
■ ブラジルの赤い大地に立って
私は“テラロッシャ”と呼ばれるブラジル特有の赤い大地を、懸命に耕した日本人移民の歩みを良く知ることもなく、コーヒー鑑定士研修生としてブラジルに渡りました。(この研修を経てコーヒー鑑定士となったわけですが、鑑定士の仕事などについてはまた先の号でお話したいと思います。)日本から約24時間の空の旅。着陸直前、これから半年間私が住む国はいったいどんなところだろうと、飛行機の窓から見下ろした大地は「赤い」その一言でした。

生まれて初めて訪れたコーヒー農園は必然のごとくか日系のコーヒー農園。私はコーヒーの畑に立てる喜びに言葉を失い、コーヒーの樹海に抱かれながら深く息を吸い込みました。ここで、畑の土壌の状態、木の植え幅、そして日系人の苦労と活躍に至るまでの道のりを教わる日々を過ごし、私は日本から遥か遠い地に生きる人々の姿に、日本とブラジルコーヒーの深いつながりを強く感じました。

この農園に滞在していた頃、コーヒーの木々たちは雨水を必要とした時期でしたが、なかなか降雨に恵まれず、今日明日中に降らなければ収穫に影響が及ぶと心配されていた時でした。そんなある朝、夢見心地の浅い眠りの中、雨音を耳にした私は、雨ひと降りに感謝しながら、コーヒーを愛しく思ったことを今でも覚えています。

ブラジルのコーヒー畑。 “テラロッシャ”と呼ばれる独特の赤い土が印象的。
その日は朝食の前にコーヒーの畑へ車を走らせてもらいました。午後にはしおれてしまうコーヒーの花を見るために・・・。初めて見るコーヒーの白い花、初めて嗅ぐコーヒーの花の匂い。可憐な花が咲く畑の中で、一番の笑顔の花を咲かせていたのは、この私だったかもしれません。その時、私の足元にはブラジルの赤い赤い大地がどこまでも広がっていました。
参考資料:
◆ブラジル日本移民八十年史 移民八十年祭祭典委員会
◆日伯修好100周年「ブラジルへの虹」黒田公男著(財)日伯協会
◆「ブラジル」の珈琲生産及取引状況 昭和5年2月 外務省通商局
◆ブラジルコーヒー生産量のデータ:「アメリカ農務省データ(1999.10−2000.9)」より

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