コーヒーの歴史コーヒーの歴史HISTORY 歴史HISTORY 歴史

コーヒーはどんな歴史を
歩んできたのでしょうか?

コーヒーの発見から歴史を
語る上で欠かせない
近年までの主な出来事を、
年表の形式で紹介します。

1. 気になる出来事を
ピックアップ1. 気になる出来事をピックアップ1. 気になる出来事をピックアップ

コーヒーの歴史年表から、発見にまつわる伝説や日本への伝来、世界的な出来事など、いくつかのコーヒーに関する出来事をピックアップしてみました。
歴史上の偉人とコーヒーの意外な関係、アメリカ人がコーヒーを好むようになったのにはある事件が関係していた?
気になるトピックをクリックすると、年表の詳細に移動します。

2. 年表で知る
コーヒーの世界と日本の歴史2. 年表で知るコーヒーの世界と日本の歴史2. 年表で知るコーヒーの世界と日本の歴史

初めてアフリカ大陸で発見されてから現在に至るまで、時には政治や芸術にも影響を与えたコーヒー。長い年月の中で、どんな出来事があったのでしょうか?世界と日本の出来事をまとめた年表で、コーヒーの歴史を追ってみましょう。

900年頃

HISTORY

アラビアの医師ラーゼスが
初めてコーヒーについて記述

文字によるコーヒーの記録は、900年頃アラビア人の医師ラーゼスによるものが最初と言われています。

彼は、コーヒーの薬理効果を認めていて、実際に、野生のコーヒーの種子(バン)の黄褐色の煮出し汁(カム)を「バンカム」と名付け、患者に飲ませていたそうです。 彼の記した文献には、“コーヒーには消化や強心、利尿の効果がある”という詳細な臨床結果が残されていて、これはコーヒーに関する最も貴重な初期の文献といわれています。

このラーゼスの後、イスラム教徒の医師アヴィセンナ(980〜1037)によっても同様の記述がなされています。
「熱さ口当たりよさ第一級なり。人によりてはその興ざましなること第一級。身体各部を強化し、皮膚を清めて湿りを取り去り、香りを生む」とコーヒーの医学的な効能が表わされています。

コーヒーの記録は、こうして医師たちの手によって残されてきたのですが、そのために後世においても、コーヒーは単なる飲み物にとどまらず、薬としても考えられるようになったのです。

閉じる

1258年頃

イスラム教徒シーク・オマールが飲み物としてのコーヒーを発見(コーヒー起源伝説)

HISTORY

イスラム教徒シーク・オマールが
飲み物としてのコーヒーを発見
(コーヒー起源伝説)

アラビアのモカ(現イエメン)の守護聖人シーク・スシャデリの弟子シーク・オマールは、モカで祈祷師として人気を集めていました。

ある日、モカ王の娘の病気を祈祷で癒したとき、オマールはこの娘に恋をしてしまい、これが王に発覚。オマールはオウサブという地に追放されてしまいます。

オマールは、この山中で素晴しい羽根をもった小鳥が小枝にとまり陽気にさえずるのを見つけました。その鳴き声があまりに美しかったので、思わず手をのばすと、木の枝々には花と果実があるだけでした。

空腹だったオマールはこの果実を摘み取って洞窟に持ち帰り、スープを作ってみようと思いました。その果実からは素晴しく香りのよい飲み物ができ、飲んで見ると元気が出たような気がしました。それがコーヒーだったのです。

閉じる

年代不詳

エチオピアのヤギ飼いカルディのコーヒー発見物語(コーヒー起源伝説)

HISTORY

エチオピアのヤギ飼い
カルディのコーヒー発見物語
(コーヒー起源伝説)

アビシニア(現エチオピア)にカルディという一人のアラビア人ヤギ飼いがいました。

ある日のことカルディは、自分が世話をしているヤギが牧草地に生えている灌木の実を食べると、騒がしく興奮状態になることに気づきました。

そこで、近くの修道院を訪ねてこの不思議な話を伝えると、院長も不思議に思い、その実の効能を自ら試してみることにしました。茹でて飲んでみたところ、気分が非常に爽快になったのです。

これに驚いて彼は夜の儀式中に居眠りをする修道僧たちにも飲ませてみることにしました。すると効果てきめん。弟子たちは居眠りもせずに勤行に励むことができました。

やがて「眠らない修道院」の噂は国中に広まり、魔法の木の実が競って求められるようになったということです。

閉じる

1454年頃

アデンの聖者シーク・ゲマレディンがアビシニアへ旅した際にコーヒーの効能を知る。アラビアでコーヒー飲用が認められる

HISTORY

アデンの聖者シーク・ゲマレディンが
アビシニアへ旅した際に
コーヒーの効能を知る。
アラビアでコーヒー飲用が認められる

アデン(イエメンの首都)のイスラム教師、シーク・ゲマレディンが、1454年にアビシニア(エチオピア)に旅行した際、コーヒーの効能を詳しく知りました。

アデンに帰国後、健康を害したゲマレディンは、アビシニアでのコーヒーのことを思い出し、効き目があるかもしれないと考えました。そこで、現地からコーヒーを取り寄せ飲んでみたところ、病気が治ったばかりか、眠気を追い払う効果があることにも気づきました。彼は早速、托鉢修道僧にコーヒーを飲むことを勧めたのです...

アデンではこれ以前にもコーヒーの飲用は知られてはいたようですが、ゲマレディンのこの宣伝活動がコーヒー流行のきっかけになったのです。

これに驚いて彼は夜の儀式中に居眠りをする修道僧たちにも飲ませてみることにしました。すると効果てきめん。弟子たちは居眠りもせずに勤行に励むことができました。

フランスの国立図書館蔵のアラビア語文献には次のような記述があります。「法律家や学生ばかりか、夜歩く旅人、芸術家など日中の暑さを避けて夜働く人々は、もっぱらコーヒーを飲むようになった」ということです。

閉じる

1554年頃

HISTORY

トルコのコンスタンティノープルに
世界最初のコーヒーハウスが開店

1554年、ダマスカス(現シリア・アラブ共和国)出身のシェムジと、アレッポ(現シリア・アラブ共和国)出身のヘケムが、トルコのコンスタンティノープル(現イスタンブール)のタクタカラと呼ばれる界隈に、それぞれコーヒーハウスを開業しました。

この2店が世界最初のコーヒーハウスと言われています。両店とも調度品と装飾に凝り、居心地は抜群で、社交の場としてトルコ人の熱狂的な支持を集めました。以後、トルコではコーヒーハウスが急増し、コーヒーはあらゆる階級に大歓迎されていきます。

人気が高まるにつれてコーヒーハウスはますます豪華になり、深々と絨毯が敷かれ、サロンも併設されるようになりました。そこには、様々な国の商人や旅人、官職を求めて地方からやってきた法官、裁判官を目指す若者、官廷の役人などが訪れ、コーヒーハウスは「賢者の学校」とも呼ばれるようになったのです。

閉じる

1607年

キャプテン・ジョン・スミスによりアメリカにコーヒーが伝えられる

HISTORY

キャプテン・ジョン・スミスにより
アメリカにコーヒーが伝えられる

アメリカに初めてコーヒーを伝えたのは、キャプテン・ジョン・スミスと言われています。

トルコを訪れたときコーヒーに馴染んだジョン・スミスは、1607年に約100人の植民団を率いて、現在のバージニア州に上陸し、ジェームスタウンを創設。コーヒーは、この時一緒に北アメリカに伝わったのです。

閉じる

1641年

長崎の出島にオランダ商館が移される

HISTORY

長崎の出島に
オランダ商館が移される

日本に初めてコーヒーが伝えられた年はいつ頃かは不明ですが、鎖国中の日本で唯一開かれていた長崎のオランダ商館であったといわれています。

商館に駐在していたオランダ人によって、彼らと接触できた役人や商人、蘭通詞(通訳)、遊女などの限られた日本人にコーヒーが供される機会は十分にあったと考えられます。

閉じる

1644年

HISTORY

コーヒーがフランスのマルセイユに
P・ド・ラ・ロークによって伝わる

P・ド・ラ・ロークは、フランス大使のM・ド・ラ・エイに随行してコンスタンティノープルに赴き、その後レバント地方を旅して回りました。

そして1644年にマルセイユに戻った際、コーヒーを少量持ち帰りました。また同時にトルコで使われていた陶磁器のコーヒーカップなどのコーヒーセットも持ち帰り、いずれも当時のフランスで珍品としてもてはやされたそうです。

一般の人々にコーヒーが知れ渡ったのは、1672年にパスカルというアルメニア人がパリで初めて一般の人々にコーヒーを売った時のこと。サンジェルマンの博覧会のことで、一種のブースだったといいます。

トルコ人の少年たちが給仕をしたり、小さなカップを盆に載せて人ごみの中を売り歩いて、コーヒーは博覧会に訪れた人々に“小さなカップに入った美味しい黒い飲み物(プチ・ノワール)”と呼ばれて好評を博しました。

この後、パスカルはレコール河岸のヌフ橋近くにコーヒーハウスを開業しましたが、東洋風カフェは外国人か貧困階級の人々のためのもの、というイメージがあり、上流階級の人々が出入りしにくく、売り上げはいまひとつ。

パスカルはやがて店をたたんで、コーヒーがひっぱりだこのロンドンへ移ってしまいました。本格的にパリ市民にコーヒーが広まるのは、純フランス風カフェの出現を待ってからになります。

閉じる

1650年

HISTORY

イギリス最初のコーヒーハウスが
オックスフォードに開店

レバノン出身のユダヤ人ジェーコブズによって、1650年、オックスフォードにイギリス最初のコーヒーハウスがオープンしました。

場所は、オックスフォードの「イースト地区セントピーター教区エンジェル」で、開店と同時にコーヒーは学生たちの人気を博し、飛ぶように売れたそうです。

閉じる

1657年

HISTORY

コーヒー最初の新聞広告がロンドンの
「パブリック・アドバイザー」に登場

コーヒー最初の新聞広告は、1657年5月、ロンドンの週刊新聞「パブリック・アドバイザー」紙に掲載されました。

広告文は以下のような内容でした。

「旧取引所裏バーソロミュー通り。コーヒーと呼ばれる飲み物(きわめて身体によき天然の飲料、すぐれたる効能多し)。胃の孔を塞ぎ、体内の熱を強め、消化を助け、精神の働きを促し、気持ちを快活にする。ただれ目、咳、風邪、粘膜の炎症、肺病、頭痛、水腫、風疹、痛風、懐血病など多くに効く。午前中および午後3時に売る」

閉じる

1668年

HISTORY

アメリカでコーヒーに
関する最初の記述

アメリカでのコーヒーに関する最初の記述が見られます。
当時のニューヨークでは、コーヒーは煎った豆から作り、砂糖か蜂蜜を加え、シナモンで香りをつけて飲まれていたようです。

閉じる

1669年

フランスの上流社会にコーヒーが伝わる

HISTORY

フランスの上流社会に
コーヒーが伝わる

オスマン・トルコのモハメッド4世の命令で、ソリモン・アガがフランス大使として派遣され、ルイ14世に謁見した際に、トルコ式のコーヒーを紹介したそうです。

ルイ14世をはじめ、宮廷の貴族たちは、この香り良い飲みものに驚き、すっかりとりこに。 ソリモン・アガは、翌年5月まで大使としてパリに滞在し、その間、フランス上流社会にトルココーヒーを普及することに努めました。

アガの屋敷はトルコ風の家具調度品や東洋磁器であしらわれ、トルコ風の髪型や服なども上流階級の人々にもてはやされました。

彼の努力によって、トルコはフランスへコーヒーを輸出するようになり、のちにフランスの街にはカフェが誕生、人々がコーヒーを飲める場所を得るようになっていきました。

閉じる

1683年

コルシツキーがウィーン初のコーヒーハウスを開店

HISTORY

コルシツキーがウィーン初の
コーヒーハウスを開店

オーストリア初のコーヒーハウスの開店は、トルコ軍によるウィーン包囲が契機となっています。この戦闘でのある男の活躍が、ウィーンに平和とコーヒーをもたらしたのです。

……1683年7月、トルコのモハメッド4世の命を受けたカラ・ムスターファは、30万の軍隊を擁してウィーンを包囲しました。

神聖ローマ・ドイツ皇帝レオポルト1世とロレーヌ公国皇太子は町から数マイル離れた場所に陣をはり、町の内部にはシュターヘンベルグ伯爵の率いる守備隊が留まってポーランド王国からの援軍を待っていました。

しかし、ひと月たっても援軍は来ません。そんなときに連絡係を買って出た一人の男がいました。フランツ・ゲオルグ・コルシツキーという人物です。

彼は、長年トルコ人と生活を共にしたことがあり、トルコの言葉にも習慣にも詳しかったのです。トルコ人の服装を身にまとった彼は、包囲網を突破してポーランド軍との連絡に成功しました。

そして9月12日、合流したポーランド軍と皇帝軍は市内の守備隊と連絡をとり、ウィーンの内と外から攻撃を開始しました。この時、コルシツキーは攻撃開始の合図を伝えるために、再びトルコ軍の包囲網をくぐり抜けたのです。

結果、トルコ軍は敗走し、後にはさまざまな物品が残されました。その中に大量のコーヒー豆がありました。

戦利品は分配されましたが、コーヒー豆を欲しいという者は誰もいませんでした。使い方を知らなかったのです。

ただ一人、コルシツキーが、「この袋に詰まったものを望む人がいなければ、私が所望いたします」と申し出ました。奇妙な豆が処分できるので、人々は喜んで彼に功績の報奨として与えました。

そして数日後、コルシツキーはトルコ風コーヒーを飲ませるウィーン初のコーヒーハウスを開店したのです。

閉じる

1689年

パリに最初の純フランス風カフェ「カフェ・ド・プロコープ」が開店

HISTORY

パリに最初の純フランス風カフェ
「カフェ・ド・プロコープ」が開店

1689年、それまで東洋風だったコーヒーハウスと一線を画した、純フランス風のカフェが登場しました。
これが有名な「カフェ・ド・プロコ-プ」、創業者はフランソワ・プロコープという人物です。

……フィレンツェ出身のシチリア人プロコープは、王室の許可を得て香辛料や氷菓、大麦湯、レモネードを販売する商人でした。

彼は上流階級の人々を狙って、デ・フォセ・サンジェルマン通り(現在のランシエンヌ・コメディー通り)の、新築間もないコメディー・フランセーズの真正面に「カフェ・ド・プロコープ」を開業しました。

場所柄、大勢の人々の溜り場になり、18世紀フランスの著名な役者、作家、劇作家、音楽家などが集う文学サロンとして人気を博しました。

作家で啓蒙思想家のボルテール、文学者で思想家のルソー、劇作家で金融家のボマルシェ、思想家ティドロ、また、ド・ベロワ、ルミエール、クレビオン、ピロン、ラ・ショセー、フォントネルなど、フランス芸術界の逸材たちが、カフェ・ド・プロコープの常連客だったということです。

時代は下ってフランス革命期、カフェ・ド・プロコープは政治家やジャーナリストたちが激論を戦わせる舞台となります。マラー、ロベスピエール、ダントン、エベール、デムーラン等が、コーヒーを飲みながら焦眉の問題を論じあいました。

また、当時しがない砲兵隊将校だったナポレオン・ボナパルトも、ここでチェスに興じていました。ある日、コーヒー代を払うよう求められた若きボナパルトは、つけの形に帽子を置いていったということです。

閉じる

1695年

ババ・ブータンがコーヒーをメッカからインドへ持ち帰る

HISTORY

ババ・ブータンがコーヒーを
メッカからインドへ持ち帰る

イエメン地方のイスラム教寺院で栽培されていたコーヒーは、国外への持ち出しが厳しく禁止され、厳重な監視のもとにおかれていました。

このコーヒーの持ち出しに成功したのが、ババ・ブータンというイスラム教徒のインド人でした。

彼は聖地メッカへ巡礼にやってきた時、コーヒーをインドへと持ち帰りました。いわば盗み去ったのです。

その後、南インドのマイソール海岸で栽培に成功。この木が原木となり、南インド一体はコーヒーの生産地として今に至っています。

閉じる

1697年

HISTORY

ボストンで歴史に
深いかかわりを持つコーヒーハウス
「グリーンドラゴン」が営業開始

17世紀も最後になると、北アメリカにはたくさんの居酒屋と宿屋が誕生します。
その中でもボストンの商業地ユニオン通りにありコーヒーハウスを兼業していた「グリーンドラゴン」は、最も有名になりました。

1697年から1832年まで営業していた「グリーンドラゴン」にはボストン茶会事件の首謀者や、独立戦争で活躍した人々、貴族や軍人などなど、その時代において活躍した様々な人が集まりました。

政治家でもあり雄弁家でもあるダニエル・ウェブスターの言葉によると、この店は「独立戦争の本部」でもあったそうです。

また、アメリカ植民地の自由を確保するための「対策委員会」が開かれたり、フリーメーソン大本部の会員たちもこの店に集まり、会議を開きました。

現在、「グリーンハウス」があった場所は、フリーメーソン・セントアンドリュース本部の所有地になっているそうです。
ここボストンでもコーヒーハウスは歴史に深いかかわりあいを持っていたのです。

閉じる

1699年

HISTORY

ジャワへ二度目の
コーヒーの苗木を運び栽培に成功。
オランダ領インド諸島のすべての
アラビカ種コーヒーノキの先祖となる

1699年、オランダ領東インド諸島(インドネシア)のジャワ島に、ヘンリックス・ツヴァールデクローンによって2回目のコーヒーの苗木が運ばれました。

1696年に運ばれた最初の苗木は、その後の地震と洪水によって壊滅してしまったからです。

インド南部のマラバルから海路運ばれた苗木は、まもなくジャワ各地の農園で無事育ち、オランダ領東インド諸島のすべてのアラビカ種コーヒーノキの先祖となったのです。

閉じる

1706年

HISTORY

ジャワ島産コーヒーの初荷を
オランダ本国に送る

1706年バタビア(現ジャカルタ)周辺で栽培されたコーヒーの最初の積み荷が、苗木1本とともにアムステルダムのオランダ東インド会社に出荷されました。

コーヒー豆の積み荷自体の量は多くはなかったのですが、コーヒーの木は植物園で栽培され、繁殖にも成功しました。

そして後年、このコーヒーの木が西インド諸島と中南米に伝播することになるのです。

閉じる

1723年

フランス人、ガブリエル・ド・クリューがパリ植物園からコーヒーの苗木を西インド諸島マルティニーク島へ運ぶ

HISTORY

フランス人、
ガブリエル・ド・クリューが
パリ植物園からコーヒーの苗木を
西インド諸島マルティニーク島へ運ぶ

西インド諸島、メキシコ湾沿岸諸国のコーヒー栽培の発展は、フランス領マルティニーク島の歩兵大尉ガブリエル・マチュー・ド・クリューによって、苦難の末に持ち込まれた1本のコーヒーの木に起源を発しています。

……任地マルティニーク島から一時帰国していたクリューは、人々がコーヒーを飲んでいるのを見て、マルティニーク島にコーヒー栽培を伝えようと思いました。

彼はコネを利用して、パリ植物園で栽培されている貴重なコーヒーの木の苗木を手に入れることに成功します。

1723年、彼はこの苗木を携えて航海に望みました。しかし、当時の海洋航海は大変な難事であり、クリューらは数々の試練に見舞われることに。

ある時はチュニス人の海賊に捕まりそうになり、またハリケーンに遭って危うく沈没しそうになったときもありました。彼に妬みを持つ乗客の手によって枝が折られたことも‥。

さらに、途中で飲料水が乏しくなり、残りの水は配給となりました。しかしクリューは、自分に割り当てられた僅かの水をコーヒーの木に注ぎ、枯れないよう細心の注意を払いながら、任地・マルティニーク島に持ち込むことに成功しました……

この苗木が成長して生み出した種子が、アンティル諸島のみならず、西インド諸島、メキシコ湾沿岸各地のコーヒーの起源となったのです。

中南米のコーヒー栽培は、こうしてマルティニーク島を拠点として栽培地を拡大していきました。

閉じる

1727年

ポルトガル植民地パラにコーヒーの種子と苗木が持ち込まれる。ブラジル最初のコーヒー農園の始まり

HISTORY

ポルトガル植民地パラに
コーヒーの種子と苗木が持ち込まれる。
ブラジル最初のコーヒー農園の始まり

ブラジルに初めてコーヒーの木が持ち込まれたのは1727年、ポルトガル沿岸警備中尉フランシス・デ・メロ・パルヘッタによるものです。

……パルヘッタはフランス領ギアナの長官を訪問したとき、新しい飲み物であるコーヒーに目をつけました。

ギアナの首都カイエンヌのクロード・トルヴィエ総督夫人に取り入った彼は、コーヒー国外持ち出し禁止の掟があるにもかかわらず、コーヒーの種子と苗木を入手して持ち出すことに成功しました。いわば、盗みだしたのです。

パルヘッタは1000粒以上の種子と5本の苗木を持って、当時ポルトガル領だったアマゾン川河口のパラに帰任しました。

その後、パラでは栽培が小規模ながら行われるようになり、次第にブラジル全土に広がっていきました。

閉じる

1732年

バッハの有名な「コーヒー・カンタータ」がライプチッヒで発表される

HISTORY

バッハの有名な
「コーヒー・カンタータ」が
ライプチッヒで発表される

ロンドンのコーヒーハウスが女人禁制であったように、ドイツでも女性はコーヒーを飲むべきではないという風潮がありました。

これに反発する女性の声を代弁し、ドイツでのコーヒー騒動を風刺したのが、バッハの「コーヒー・カンタータ」です。

もともとは「おしゃべりをやめてお静かに」という、娘のコーヒー好きをなんとか止めさせようとする古風な父親の奮闘ぶりが詠われたコミカルな詞に曲をつけたのがバッハで、今日では「コーヒー・カンタータ」として有名になっています。

♪ああ コーヒーはおいしいわ
千のキスより素晴らしく
マスカット酒よりなお甘い
コーヒー コーヒーはやめられない♪

閉じる

1760年

多くの芸術家が集ったローマの「アンティコ・カフェグレコ」が開店

HISTORY

多くの芸術家が集ったローマの
「アンティコ・カフェグレコ」が開店

今も昔日の雰囲気のままスペイン広場の近くで店を開いている「アンティコ・カフェ・グレコ」は、ベネチア初の喫茶店とされている「カフェ・フローリアン」と同様に、多くの芸術家たちの集まる喫茶店でした。

この店を訪れたことのあるドイツの文豪ゲーテは、37歳から2年ほどイタリアを旅行しており、その体験が彼の文学に大きな影響を及ぼしていると言われています。

イタリアを舞台に「即興詩人」を書いたアンデルセンやロッシーニ、リスト、ワーグナーなどの作曲家たちも、この店を愛した芸術家です。

閉じる

1773年

ボストン茶会事件で海に茶を投げ捨てられる。以降、コーヒーがアメリカの常用飲料となる

HISTORY

ボストン茶会事件で
海に茶を投げ捨てられる。
以降、コーヒーが
アメリカの常用飲料となる

北アメリカには、17世紀後半にコーヒー、ココア、紅茶が伝わりましたが、イギリスの紅茶の飲用習慣をそのまま引き継いで、当時は紅茶の方が普及していました。

ところが、イギリスが、コーヒー貿易の競争でオランダやフランスに敗北し、紅茶貿易に切り換えたことにより情勢が変わりました。
イギリスは「茶条令」の発布によって輸入紅茶を独占した上で、価格をつりあげ、重い税金をかけたのです。

これに怒ったアメリカの人々は、ボストンに停泊していたイギリスの東インド会社の船を襲い、積み込んであった紅茶をすべて海中に投げ捨ててしまいました。これが1773年に起こった「ボストン茶会事件」です。

この事件を機にアメリカはイギリスからの独立の気運を募らせたとともに、紅茶よりもコーヒーを好むようになっていったのです。

閉じる

1777年

プロシアのフレデリック大王がコーヒー禁止令を布告

HISTORY

プロシアのフレデリック大王が
コーヒー禁止令を布告

大のコーヒー好きだったプロシア(現ドイツ)のフレデリック大王が、突然コーヒー禁止令を布告しました。

当時、植民地を持っていなかったドイツにとって、コーヒー消費量の増加は、一方的な通貨の海外流出となり、国際収支のバランスが悪化するばかり。しかもドイツビールの生産量が減り、打撃を受け始めていたのです。

そこで大王は自分の好みを押さえてビールを飲むように奨励し、コーヒーに重税をかけました。

それでもコーヒー愛好者が減らなかったため、1781年には、王室以外でのコーヒーの焙煎を禁止、貴族・司祭・将官といった上流階級のみがコーヒーを独占することとなり、王室は莫大な利益を得ました。

閉じる

1782年

HISTORY

蘭学者志筑忠雄の
訳書「萬国管窺」が出る。
日本初のコーヒーに関する
文献とみられる

わが国初と思われるコーヒーの文献が登場したのは1782(天明2)年、蘭学者志筑忠雄の訳書である「萬国管窺(ばんこくかんき)」です。

「阿蘭阿弥陀の常に服するコッヒイというものは、形豆の如くなれども、実は木の実なり」と著し、豆ではなく木の実であると正確に述べています。

閉じる

1804年

大田蜀山人、日本人初のコーヒー飲用体験を残す

HISTORY

大田蜀山人、日本人初の
コーヒー飲用体験を残す

1804(文化1)年には、日本人自身の手によるわが国最初のコーヒー飲用体験記が大田蜀山人により記されています。

「紅毛船にて"カウヒイ"というものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくて味ふるに堪えず」(瓊浦又綴)と書き記していることなどから、当時の日本人の嗜好にはなじんでいなかったことがうかがえます。

しかし、その後人々のコーヒーに対する興味関心も高まり、蘭学者によるコーヒー著述活動が盛んになりました。多くは、コーヒーに関する本草学・植物学・医学・薬理学的内容を中心に、たて方や飲み方の製法・手法に至るまでの内容でした。

そしてさらに、江戸時代末期にかけてコーヒーの資料は質・量ともに充実していったのです。

閉じる

1824年

シーボルト、日本にコーヒー飲用の効能を解説

HISTORY

シーボルト、日本に
コーヒー飲用の効能を解説

長崎出島詰め医師として来朝したシーボルトは『薬品応手録』にコーヒーの飲用をすすめた一文を載せました。

彼は200年以上もオランダ人と交流のある日本人が、いまだにコーヒーを飲む習慣がないのに驚いて、コーヒーは長寿をもたらす良薬として大いに宣伝しました。

閉じる

1858年

HISTORY

正式なコーヒー輸入が
開始される

日米修好通商条約調印。日本における自由貿易が開始されました。

アメリカに続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び、翌年からは横浜、長崎、函館の三港で貿易を開始。日本は生糸、茶などを輸出し、かなりの輸出超過となりました。
この時、コーヒーの輸入も正式に始まりました。

閉じる

1888年

HISTORY

上野黒門町に
「可否茶館」開店

日本のコーヒー史上エポックとなったカフェは、1888(明治21)年に東京下谷黒門町に開業した「可否茶館」でした。
この店にはトランプやクリケットなどのゲームや、筆や硯を用意した文房具室などの設備があったそうです。この時のコーヒー(ブラック)一杯の値段は1銭5厘でした。

その後、浅草や大阪、銀座、京橋などに次々とコーヒー専門店がオープンし、当時のハイカラな文化人たちが文学や芸術、西欧の思想などを論じる絶好のサロンとなりました。

これらコーヒー専門店の出現で、コーヒーが人々に広く愛されるようになっていったのです。

閉じる

1899年

HISTORY

日本人化学者、加藤サルトリ博士が
インスタントコーヒーを発明

現在のコーヒー普及のきっかけを作ったインスタントコーヒーですが、発明をしたのが日本人であるということは意外と知られていません。

1899年、加藤サルトリ博士は、コーヒーを一度液化してから、真空蒸発缶に入れて水分を除去し粉末にするという、真空乾燥法に成功し、インスタントコーヒーを発明しました。

ところが、当時の日本ではインスタントコーヒーの販路がなく、彼はアメリカへ渡りシカゴで加藤商会を設立。その後、ニューヨーク州バッファローで開催されたパンアメリカ博覧会に、その製品を出品・販売しました。

しかし、サルトリ博士は特許をとっておらず、1903年に別の方法でインスタントコーヒーを作った、ジョージ・ワシントンが特許をとり、幻の発明者となってしまいました。

閉じる

1944年

HISTORY

コーヒーの輸入量ゼロとなり、
「コーヒー暗黒時代」到来

第二次世界大戦の影響により、コーヒーは「贅沢品」「敵国飲料」のレッテルを貼られ、ついに1944(昭和19)年に輸入停止となりました。

閉じる

1950年

HISTORY

コーヒーの輸入再開される

1950(昭和25)年からのコーヒーの再輸入で、日本に再びコーヒー文化が花開きました。

1960(昭和35)年、国内でもインスタントコーヒーの生産が始まり、翌年輸入が自由化されてから、一種のコーヒーブームが湧き起こりました。

閉じる

1969年

世界で初めてのミルク入り缶コーヒーが誕生

HISTORY

世界で初めての
ミルク入り缶コーヒーが誕生

レギュラーコーヒーから抽出された、本格的なミルク入り缶コーヒーが、UCC上島珈琲株式会社によって開発・生産され、今では自動販売機などを通じて、どこでもおいしいコーヒーが飲めるようになりました。

閉じる

1652年

ロンドンで最初のコーヒーハウスが開店。パスカ・ロゼーの店

HISTORY

ロンドンで最初のコーヒーハウスが開店。
パスカ・ロゼーの店

1652年、パスカ・ロゼーによってロンドン最初のコーヒーハウスがコーンヒルのセント・マイケル通りにオープンしました。

パスカ・ロゼーは、ダニエル・エドワーズというロンドンの商人がトルコへ行った際に連れ帰った人物で、アルメニア人もしくはギリシャ人と言われています。

当初ロゼーはエドワーズのためにコーヒーを入れていましたが、その珍しさから来客があまりにも多くなり、エドワーズはパスカ・ロゼーにコーヒーハウスを開くことを許しました。この店の開店をきっかけとして、コーヒーハウスとコーヒー飲用の習慣はまたたくまにイギリス中に広がっていったのです。

英語によるコーヒー最初の広告は、このパスカ・ロゼーが出したチラシです。その中で、コーヒーの効能を次のように紹介しています。「コーヒー・ドリンクの効用。パスカ・ロゼーによってイギリス初お目見え。.....この飲み物は、淡泊で口当たりがよく、熱さましに効果がある。......毒気を抑えることにすぐれ、頭痛に効く。水腫、痛風、懐血病の予防と治療、また妊婦の流産予防にすぐれている。......3時間ないし4時間、睡眠を妨げる......」などと、さまざまな効能が記されています。

閉じる

1899年

HISTORY

日本人化学者、加藤サルトリ博士が
インスタントコーヒーを発明

現在のコーヒー普及のきっかけを作ったインスタントコーヒーですが、発明をしたのが日本人であるということは意外と知られていません。

1899年、加藤サルトリ博士は、コーヒーを一度液化してから、真空蒸発缶に入れて水分を除去し粉末にするという、真空乾燥法に成功し、インスタントコーヒーを発明しました。

ところが、当時の日本ではインスタントコーヒーの販路がなく、彼はアメリカへ渡りシカゴで加藤商会を設立。その後、ニューヨーク州バッファローで開催されたパンアメリカ博覧会に、その製品を出品・販売しました。

しかし、サルトリ博士は特許をとっておらず、1903年に別の方法でインスタントコーヒーを作った、ジョージ・ワシントンが特許をとり、幻の発明者となってしまいました。

閉じる